東京の東部は、江戸幕府以来続く湿地の埋め立てによってできた土地であり、堤防によって守られている。そんな中で、埋め立てを逃れて今にあるのが、上野公園の不忍池だ。
不忍池は、第二次世界大戦時は米の栽培に使われ、戦後は埋め立てて野球場にしようという案もあったらしい。ボート乗り場の歴史は古く、1931年にまでさかのぼる。
写真集 「 Earth, Water, Fire, Wind, Emptiness: Tokyo Landscape」より。
東京の東部は、江戸幕府以来続く湿地の埋め立てによってできた土地であり、堤防によって守られている。そんな中で、埋め立てを逃れて今にあるのが、上野公園の不忍池だ。
不忍池は、第二次世界大戦時は米の栽培に使われ、戦後は埋め立てて野球場にしようという案もあったらしい。ボート乗り場の歴史は古く、1931年にまでさかのぼる。
写真集 「 Earth, Water, Fire, Wind, Emptiness: Tokyo Landscape」より。
葛西臨海公園は、開発によって破壊された自生地を保存するために東京湾に造られた人工の島にある。橋は、東京、千葉、デズニーランド、成田空港をつなぐ高速道路の一部。また、スピーカーは、津波警報を知らせるためのもの。写真は、写真集 「 Earth, Water, Fire, Wind, Emptiness: Tokyo Landscape」より。 Click on the image for a larger view.
日本人が、
桜に夢中になるのはなぜだろう?
はかない桜の花の命だと言う人もいるかもしれないが、桜が「美」なる気持を、簡単に心の中に呼び起こしてくれるからであることにはまちがいない。
どうして美を感じられると、
人は嬉しいのだろう?
桜だけでなく、人間は美しい型やフォームに、中毒ともいえるこだわりや感心をもっている。どうやら、これには理由があるようだ。人間は美について、ものが所有するある種の性質のように語るけれど、実のところ、「美」はそれを見る人の中にある。
それなら、「美は単なる個人的な意見だ」と言いたくなるかもしれないが、もっと複雑だ。なぜなら、美が、見る人の中に「だけ」存在するからだ。
つまり人間は、
内で美を創造するように創られているということ。
ここで言う創造とは、外にはないのに、内で「美しい!」と感じることによって、自らの中に美を創造するように創られているということだ。これは、すごいことじゃないだろうか! 美を見たり、美を体験したりすることは、人間という種が進化した生物であることの証なのだ。
Eric Kandel 氏は、有名な著書「The Age of Insight」の中でこんなことを言っている。
「画像を見て感じた美は、肯定的な感情だけでなく、愛のような、美的なものへの中毒のような感情をも呼び起こす。」
う〜ん、人間がこの世を愛するようになるのは、美あってこそのようだ。日本人が桜を愛するのも、桜によって心のなかで美が生まれるように。森であれ、一輪の花であれ、香りであれ、犬であれ、家族であれ、友だちであれ、音楽であれ……「自分の中で美となって創造されるもの」がまわりにある環境、そんな精神的な余裕のある環境は、人間にとってはとても大切なことなのかもしれない。それがあってこそ、地球を、自然を、人を愛おしむ思いを、自らの中に感じられるようになるのかもしれない。
だから、ネイティブアメリカンのワンパノーアグ族は、
「さようなら」のかわりに「ウーニッシュ」と言ったのだろう。
つまり、
“Walk in Beauty” 「美の中を歩いてください」
2月に厳寒に咲く梅の花の高貴さにうたれ、3月に桃の花の愛らしさにほのぼのとし、やっとたどりつく桜の花。その華やかさに冬を忘れ、春になって踊りたくなるのも無理はない。でも、メイン州では春雨が小雪に変わる4月。やっとクロッカスが咲いた今。(写真の桜は、堺市の大仙公園にて撮影)
宮崎駿氏の作品をみた人なら、繰り返し登場する「あるモチーフ」に気がつくはず。
そう、樹だ。天空の城ラピタ、となりのトトロ、もののけ姫などには、力強く空へとのびるりっぱな樹が出てくる。
古代の日本人は、樹木、とくに広葉樹には、天からの神々が宿っていると信じていた。大地にしっかりとはった根、空へと広げた枝々、風をうけ、太陽の光を浴びながら、人間よりもはるかに長い時を生きる樹木。これが「神性なるもの」でなくて、なんであろう。インドの詩人で、アジア人ではじめてノーベル文学賞を受賞したタゴールは、樹をこう謳い上げた。
地球は 樹々を通して
絶え間なく 天に話しかけ
天も それを聞いている
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夏に、上高地から槍ヶ岳(3180m)をめざす人は多い。頂上部分は、槍のようにとがっているので、はしごを使う。
はしごを登っている途中で下を見れば、ゾロゾロと下から人が登ってくる。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のように、たくさんの人が、なにがなんでも頂上にいきたいのと、落ちたくないので、必死にはしごにしがみついている感じがしておかしかった。
槍ヶ岳に最初に登った日本人は、播隆(ばんりゅう)で1826年のこと。英国人ウォルター・ウエストンは、その66年後に登っている。播隆(ばんりゅう)は3体の仏像をおさめたといわれるが、今日は山頂には祠がある。
また、播隆(ばんりゅう)が修行したといわれる洞窟は、山頂から数百メートル下のトレイルの横にある。槍ヶ岳への登頂を、より容易にするために尽力をつくしたといわれる播隆(ばんりゅう)。「よくもまあ、こんなところで‥」といった印象をうけるほど、きびしい場所で、改めて昔の修行僧の志の高さを感じさせる。
今日では、一般人が色鮮やかな服装をして、ほがらかにその横を通過していく。まさに夢さながらの夏景色だ。
上高地から横尾を通って奥穂高をめざすルートは、登りやすいということもあって、とても人気がある。湿った森をぬけ、森林限界(2500m)をぬけて山頂をめざす。
夏の登山の時期は、6月の雨期と8月の台風の間のわずかな期間しかない。ベストは、7月の梅雨が明けてからの10日間。その間でも、晴れた空から突然に、雨がふってくることがある。冷たい雨なので、疲れた体にはかなりの負担となる。
自分もいち度、体温が突然に下がり、寒気がとまらなくなったことがあった。雨の最中にテントを急いではり、中で着替えをしたら、やっと寒気がとまったのを覚えている。そして、お湯をわかしてコーヒーを入れて、雨が止むのをまった。
何気にすぎた時間だったが、今にして思えば、あのとき、着替えやテントをもっていなかったら、命の危険さえあったかもしれない。若かったので、気にせずそのまま登山をつづけて、山頂に立った。90年代初め、当時は「山ガール」というものはいなかったが、私の山ガール時代の思い出のひとつである。
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