気仙川 by 畠山直哉 

畠山直哉氏の写真集「気仙川」には、2012年に出版された日本版もあるが、ここで紹介するのは、フランスで2013年に出版されたものだ。本のデザインは両バージョンとも鈴木成一氏だが、フランス版は日本版の単なるコピーではなくて、デザインが異なる。

見た目とはちがい、この本は、単純ではない。日本文化に親しい人ならまだしも、そうでない人にとっては、写真が意図することが、すぐにわかるようにはなっていない。かといって、無意味に隠しているわけではない。時間をかけて、一枚一枚ゆっくりと見る人に、この写真集は報いてくれる。

2011年3月11日の東北大震災では、23万人が家を失い、海岸線400キロの地帯に住むおよそ2万人の人が亡くなった。畠山氏が生まれ育った陸前高田も、津波に襲われた。気仙川は、陸前高田を流れる川の名前だ。

写真集は、二部からなる。最初の一部は、2002年から2010年までに撮影されものだ。畠山氏によれば、これらの写真は別に人に見せるためではなくて、ただ自分のためになんとなく撮影したのだという。そのせいか、写真には何気なさがある。スナップショット的でもあり、また実験しているような感じがある。それぞれの写真はページの中央におかれ、写真の他にエッセーがある。二カ国語からなり、フランス語の翻訳がページの上部、英語の翻訳が同じページの下部にある(下の画像参照)。

エッセーは、震災後に連絡のつかない姉と母親の安否を知ろうと、陸前高田へと急ぐ畠山氏の心の記録だ。写真の下ではなく、別ページに独立して載せられ、かつ、フランス語と英語の翻訳の間には大きな空白がある。しかもただの空白ではなく、写真と同じサイズになっている。このデザイン効果は、すばらしい。震災前の畠山氏の過去の記憶(写真)と、震災直後に東北へと急ぐ心の中のつぶやき(エッセー)との間の切換えスイッチのような役目をしている。写真とエッセーの間を行ったり来たりしながら、写真から感じられる平穏さに対する文章中の激しい苦悩によって、読者に強烈な認識的限界が起こる。

それだけではない。一部はもっと複雑だ。写真集を手にした人は、何回も目を通すことをすすめする。ほとんどがランドスケープだが、地図のようになっていて、ランドマークが繰り返し現れる。人々やイベントの写真を見れば、町に支えられたコミュニティーであることがわかる。上の写真をみてほしい。道を歩く老婆の写真があるが、それは畠山氏の家のそばを歩く彼の母親だろうか? 他のページにも同じ道と家の写真があり、祭りを祝う人々がその前を歩いている。

一部が終ると、白紙のページになる。

二部は、一枚の写真ごとに見開きの両ページを使っている。これらの大きな写真は、一部のパーソナルな感じがする写真とはちがう。距離感があり、小さなものに視線がいく。同じ陸前高田の写真でありながら、一部で見られた温かさはなく、写真家の厳しく、過酷なまでもの冷静さが伺える。畠山氏は、以前と同じようには町の風景と向き合っていない。二部の写真が、いわば検死であることは明白だ。最初は、同じ町であるとはわからない。しかし、一部で見られた生活の足跡が、解読の手がかりのように、二部の写真中に見られる。木や建物、変わらぬ気仙川によって、読者はだんだんと、何が津波によってそれらのまわりから失われてしまったのかに気づいてく。

しかし畠山氏は、この本を暗い感じで終らせてはいない。本の最後のページに、一枚の写真が載っている。一部の写真と同じ大きさ、つまり陸前高田の生活を撮った写真と同じサイズの写真なのだ。そこには、彼の母親の家の新しい土台があり、その後ろには、震災犠牲者の鎮魂を願って、気仙川を流れる精霊流しを見ている町の人々の姿がある。

Kesengawa by Naoya Hatakeyama
11.75″ x 7.5″, 124 pages
French Edition Published by Light Motiv
ISBN: 9782953790856

下のビデオは、2015年4月22日、ボストン美術館 (Boston Museum of Art)で 行われた畠山氏の英語の講演で、この本と次の作品についてお話されている。