日本人はどんな人たちか?と聞かれたら、僕はこう答える。
「温かくて、寛容な人たち」
どこの国でも、国民性となるとステレオタイプ的になり、それによって人は洗脳される。日本人も同じだ。でも、もっと時間をとって人々や生活を自分で経験してみると、ぜんぜん違う表情が見えてくる。
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これは、1995年に神田の古本屋街でMamiya 6 を使って撮った一枚。もちろんフィルムカメラ。自然環境を考えると、出版としては、電子書籍以外の選択肢はもはや残されていないように思われる。古本も、消えていくのかもしれない。でも、古本の匂いや、日焼けしたカバー、手あかや染みといった人間臭さや時の経過、人が何かを学ぼうとした熱意が、一冊の古い紙の束をとおして人から人へ伝わってくるあの感覚が、電子化によって消えていくかと思うと、寂しい気がする。せめて、今、自分の本箱にある紙の本は、大切に持っていようと思う。
東京の浅草寺では、1月18日に亡者送りがおこなわれる。夕刻、堂内、境内の灯りがすべて消され、あたりは真っ暗となる。そこに突然、本堂の奥から鬼の姿をした二人の僧侶が、大きな松明をもって出てくる。松明を床や地面にたたきつけながら、境内を一気に抜け、近くの銭塚地蔵堂脇の小さな穴に松明を投入して火を消す。悪霊を鎮める儀式で、あっという間の5分ぐらいで終わる。除災招福祈願の新年行事の締めとして行われる。
鬼はひとりは赤、もうひとりは青の衣装をまとっている。松明の火の粉をあびたり、灰をもっていると、健康と金運に恵まれるといわれている。そのため、鬼ごっこどころか、危険もかえりみずに、逆に鬼を追いかけていく人も多い。
丸保山古墳の前には、八丈神社がある。この古墳も大仙古墳(仁徳天皇陵)の陪塚とされている。大仙古墳のすぐ西側にあり、全長が87メートルの前方後円墳だ。
堺市の百舌鳥古墳群の中に住めたことは、本当に貴重な経験だったと思っている。お墓でありながら、墳丘の「緑」と壕の「水」が、都会のなかで野生動物を呼ぶオアシスとなっている。また、周りが散歩道になっていたり、公園になっている古墳もあり、人々に愛されている。しかも、1カ所に集中することなく、4キロ四方にわたってこうしたオアシスが点在している。へんな話だが、古代の墓場に、未来の理想的なお墓、いや、未来都市のあり方を見た気がした。
永山古墳は全長およそ100メートルの前方後円墳で、大仙古墳(仁徳天皇陵)の陪塚と考えられている。私たちが堺に住んでいたときには、この壕は釣り堀として使用されていた。古墳のお堀で、釣り糸をたれてのんびりと釣りをしている人をみて、なんか時の流れを感じさせる風情があり、それでいてどこか悠長な景色だった。調べたところ、この釣り堀は2011年に95年の歴史をとじたらしい。(画像をクリックすると拡大されます)
定の山古墳は、墳丘の長さが69メートルと小さい古墳で、今では城の山公園の一部となって保存されている。写真をとった時は、丘の上で本を読んでいる人がいた。春の晴れた日に、4世紀または5世紀に造られた古墳の上で、横になって読書をするとは、どこか遥かなる時間の流れを感じてしまう。
仮に1500年後の西暦3500年ぐらいに、まだ人類がいるとする。いかに文明が進んでいても、自分の骨がかつて埋められた場所の上には、木々が伸び、お花も咲いていて、そこに横になっている人間がいる。そして、空を眺めながら、「あの雲はクジラみたいだなあ」なんて思いながら、悠々と流れる雲を見ていてくれたらいいなあと思う。
堺市は人口84万人が住む政令都市だが、そんな開発し尽くされたような都市で、百舌鳥古墳群は、野生動物保護地域のようなすばらしい働きもしている。冬の夕暮れには、カラスの大群が、神秘めいて古墳の上を飛びまわる。夏には、クマゼミが大気を揺らさんばかりに、信じられないようなうるさい声で鳴く。お堀には魚はもちろん、それを目当てに鷺(さぎ)、鵜(う)、カモ、オシドリなどがやってくる。
下のいたすけ古墳には、コンクリートの橋が少し残っている。古墳を破壊して開発しようとしたときに造られたらしい。結局、開発に反対する市民運動によって、開発は阻止され、橋の残骸が残された。
いたすけ古墳で写真をとっていると、古墳の丘からタヌキがでてきた。まもなくして、近所の人だろうか? 父とその子供がやってきて、ソーセージを槍の先につけて、古墳のタヌキに飛ばしはじめた。タヌキは実に慣れたもので、的が外れてソーセージがお堀の水の方向にいくと、「無駄なことはいたしません」とばかりに、じっと橋の端からそれを傍観していた。空飛ぶごちそうが、しっかりと自分の方向に来たと確信したときにのみ、「よっこらしょっ」と動くのである。上の写真に、その3匹のタヌキが写っているのがわかるだろうか? このカメラをもった人間も「空飛ぶランチ」を携えてきたかどうか、チェックをしているのだろう。
御廟山古墳(ごびょうやまこふん)は、かつては近くにある百舌鳥八幡寓の奥社だった。壕は二重だったが、今では内側の壕だけが残されて、全長186mの前方後円墳をかこっている。百舌鳥古墳群の中では4番目に大きな前方後円墳で、この壕からも、かつては大きな古墳だったことがうかがえる。
以前は裸の墓だったが、今では木々が覆っていて、土砂の浸食を防いでいる。どの古墳でもそうなのだが、こうした木々は、いかにも自然で枝振りも美しい。町中の風景とは思えない。また、お堀の水を目当てに、水鳥もやってくる。渡り鳥もやってくる。多くの人間の労力や命を犠牲にして作られたと思われる古代の権力者たちの墓が、今、自然環境保全にも重要な役割し、また市民の安らぎの場所にもなっているという不思議さ。こんな逆転劇を、いったいだれが予想しただろうか?
13年ぐらい前のことだが、大阪府堺市にある百舌鳥古墳群の中に住む機会に恵まれた。東西・南北4キロメートルにわたる地域に、4、5世紀に作られたおよそ46基の古墳が今でも残されている。かつては100基以上あったらしい。
古代の権力者たちの巨大な墓場が、今では町になっていて、墓のまわりや墓を壊して家や道路を作って一般市民が生活をしているという風景のもつおもしろさ。古墳のまわりを散歩すると、古墳時代と現在というふたつの時空に住んでいるような感じがしてくる。
住み始めたときは、「こんな場所があったのか!」と、関西に残された遺産の豊かさと、そんな貴重で重要な文化遺産をなんとも思っていないかのように、当たり前の顔をして住んでいる人々に本当に驚いた。百舌鳥古墳群は、世界遺産登録を今、さかんに進めているが、はるか前にそうなっていてもおかしくない場所だ。
古墳のなかでも圧巻なのは、もちろん歴史の教科書にのっている仁徳天皇陵とも呼ばれる大仙古墳。ただ、古墳の外側には車道や歩道があるので、遠巻きにはほぼひとまわりできるものの、古墳の中には全く入れない。最初の写真の鳥居のところまでしかいけない。それでも、鳥居のところにいって古墳に向うと、この丘のような古墳が人の足に荒らされていないからだろうか、心静まるような清涼な何か感じる。
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