陸前高田 by 畠山直哉 

畠山直哉氏の「陸前高田」は、前に紹介した「気仙川」の続編のような写真集で、畠山氏の母親を含む15879名の命を奪った2011年の東北大震災と津波の後の故郷を撮った写真からなっている。「気仙川」と同様に、私がここで紹介しているのはフランス版だ。

陸前高田の再建の様子がわかるように、写真が時系列に並べられ、ページ番号が写真の撮影日になっている。津波の8日後の2011年3月19日からはじまり、2016年6月26日で終わっている。

英国の芸術評論家の故John Bergerが、「なぜ写真がー予想外の結果を生むー不思議な発明なのか。それは、主原料が光と時間だからだ」と言ったことがある。写真家は、その主原料から場所と構成を選ぶのだが、風景写真においても、予想外の結果が生まれることがある。つまり、写真家の、すばらしいものを偶然に発見する才能が現れる。写真家の心のオープンさが、単なる風景表現を、それ以上のはるかに深い作品へと導くことがある。

とてもプライベートな作品集である「気仙川」とちがって、「陸前高田」には、畠山氏の他の作品にもみられる氏の正確で訓練されたアプローチが見られる。しかし、町が再建されるにしたがって、氏の写真も変わっていく。一貫した撮影方法の中にも、氏の進化が見えてくる。それがわかるのは、地震から1年ちょっと後に撮影された4人の人がミステリアスな光を伴う木を見上げている写真だ。

本もこの不可思議な写真によって、津波による破壊から、町に生活がもどってくる流れにシフトをしている。これは、畠山氏自身のシフトのようにも思える。なぜなら、畠山氏は注意深く、鍛錬された写真家であり、彼の作品には不注意など見当たらない。それなのにこの写真には、フィルムの取り扱いミスによって生まれたオレンジの光(フィルムがしっかりとはいっていないと、こうした現象がおこる)が写っている。この偶然にも起きた素晴らしい結果は、撮影中に起きたのか、編集中に起きたのか? いずれにしても、これをチャンスと見てテクニカルミスをも受け入れた許容力に、彼の作品と畠山氏自身の関係の変化を感じる。

 

一枚一枚の写真に訴えるものがあり、この写真集は素晴らしい。ただ、「気仙川」ほどではない。最初はお決まりのエッセー(もちろん状況を考えれば、このエッセーを書くことは難しいことだったにちがいない)ではじまり、終わりは、畠山氏の体験と考えにもどついた思慮深い章で締めくくられている。そして、この二つ章の間に、写真がただ時系列に並んでいる。このデザインとレイアウトの他には、この作品集を理解する方法はほとんどない。

私は、写真というものは、現在の状態を示すだけの媒体ではないと思っている。「気仙川」は、画像と文章を非常にうまく使って、物語を語っているようなうまい構成になっている。それに比べると、「陸前高田」は、ちょっと惜しいことをしたと思う。写真集を時間をかけて見れば見るほど感じるのだが、この写真集にも「気仙川」と同じように、テーマと物語が潜んでいる。「気仙川」は、物語を読者がすぐに感じられるようにできていたが、「陸前高田」では隠れている。読者に予備知識があるか、労力をつかって見ないかぎり、わからない。おそらく私がこう感じてしまうのも、「陸前高田」の欠点というよりは、「気仙川」がもつパワーのせいだろう。

写真集のハイライトのひとつは、最後の写真のあとに現れる空白のページだ。この物語の先を表す写真を待っているかのようであり、それはまた、歴史とは、ゴールに到達するというようなものではなくて、ただ間断なく展開していくものであるということを示唆しているように見える。

この写真集には、優れたすばらしい物語がある。町と写真家両方の物語だ。それは、生活がもどってくる一方で、失われたものを忘れることはないという、複雑な物語だ。畠山氏は、風景写真の領域を利用して、この複雑さをみごとに表現している。読者が時間をかけて写真集と向かい合えば、必ず、この隠れた物語を見つけることができるだろう。

Rikuzentakata
Naoya Hatakeyama
Light Motiv, 2016
ISBN: 9791095118022