こんな光のなかで
今 生きているということが
不思議なことに思えてくる 秋の森
ほら、また木の葉が降ってきた
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今 生きているということが
不思議なことに思えてくる 秋の森
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庭の色づいたカエデの葉をみたら、その色をスペクトラム化したくなった。これらの色が、紅葉のときには一度に、ひとつの木に現れている。澄んだ秋の光のなかで咲きはえる。どおりで、色づくカエデの木をみると、笑いたくなるというか、踊りたくなるというか、陽気になるわけだ。秋が物悲しいなんて、うそ、うそ。
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メイン州では、紅葉のピークを迎えている。写真の葉は、庭の同じ1本のカエデの木(下)から、同じ日にとってきた。色とりどりとは、このこと。こんな色が、風にいっしょに揺れる秋。
©William Ash
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今年は、我が家だけでなく、道ばたの忘れられたリンゴであれ、果樹園のりんごであれ、どこもかしこもメイン州ではリンゴが豊作のようだ。上の青りんごは、ブラッシンググラニーににているけれど、すっぱくなくておいしい。そばに植えたクラブアップルの木がよかったのか、今年はたくさんの実をつけた。
ひとつだけ赤いのは「れんちゃん」で、まだ収穫期ではないけれど、地面に落ちていたので拾ってきた。今もなんのリンゴなのかわからないけれど、アップルソースにするとおいしい。
我が家のりんごは、完全有機栽培。数回だけ、Surroundという粘度スプレーをかけただけ。見かけは悪いが、中身は全く問題なくて虫もほとんど食っていない。皮ごと丸かじりできる幸せもさることながら、皮をむく手間が要らないことがなんともありがたい。
最近、出版された「地水火風空(Earth, Water, Fire, Wind, Emptiness)」の中の一枚が、メイン州立大学の写真展「Home and Homelessness」に選考されました。この写真展は、メイン州あげてのフォトーグラフィーのお祭り「Maine Photo Project」の一環として行われるものです。
メイン州生まれの世界的に有名な写真家 George DeWolfe、他3名の写真家による審査によって選ばれた14人の写真家による60枚の作品が展示されます。10月9日から11月13日まで一般に無料で、9 a.m.–4 p.m、月曜から金曜日まで公開されます。よろしければ、足をお運びください。
カメラは人間の視覚をまねたものだから、シャッターを押せば、自分が見たイメージをカメラが捉えたと思いがち。でも人間の目は、そんな単純なものじゃない。
たとえば、中央の画像の「夕暮れの景色」を見ているとする。
ところが目の網膜のある細胞は、左の画像のように、どれだけ明るいかという輝度がわかるが、色には反応しない。また他のある細胞は、右の画像のように、色に反応できるが、輝度はわからない。これらの別々な細胞から、輝度と色のシグナルが脳に送られる。しかも、別々な場所に送られる。
だから、見ている景色とは、左の画像(輝度だけの画像)と右の画像(色だけの画像)が、別々に脳内で処理されることによって再生された画像にすぎない。
生物が色に反応するようになったのは、進化の過程でいえばごく最近のことらしいが、色に反応できることは、とてもすばらしいこと。輝度だけじゃあ、空はつまらない。
水平線上のオレンジ色の空(中央の画像)が、雲の間から見える青い空と同じ明るさ(左の画像)に見えてしまって、夕焼けの空ではなくなってしまう。視覚に色が加わったからこそ、見えるようになったものがたくさんある。もちろん、右の画像からもわかるように、色だけだと構造や詳細はわからない。
光、光というけれど、電磁スペクトルのなかで見えるところまでの呼び名にすぎないし、目に見える色は、人間の視覚が光に反応しているからそう見えるだけで、実際に自然界にそうあるわけではない。
でも、輝度と色に加えて、想像をも超えた美しい世界に反応できる知覚システムを、もっともてるように進化していけたらいいな。