四国遍路道 ~霧の中の空海

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©William Ash

11番の藤井寺から12番の焼山寺までの山道は、遍路道随一の難所といわれている。私たちが歩いた日は、山全体が、霧につつまれたような日だった。

目の前にみえる細い道をひたすら歩き続けていると、階段があらわれ、その先には修行僧の姿をした空海の銅像が立っていた。浄蓮庵(一本杉庵)で、藤井寺から上り下りを8.8キロした標高745メートルのところにある。四国には、88ヶ所以外にも、弘法大師ゆかりのお寺や場所が数多くあるが、霧の朝、山奥のこの庵に着いて、その幽玄さに息をのんだ遍路は数知れないだろう。

四国遍路道を歩いて3周した30代夫婦の聖地巡礼日記
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四国遍路道 ~ 納経する人々

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©William Ash

四国の遍路道をまわったとき、納経をお寺でお願いした。納経帳は重いので、歩きの遍路にとっては悩みの種。でもごく稀に、ご住職が丁寧に書いて、「お気をつけて」という言葉を笑みといっしょにかけてくださったりすると、賞状を受けとる子供のような気分になって、ありがたくなったりする。流れるような黒文字をみると、遍路の疲れも、いっしょにどこかに流れていくようだった。

 

30代のアメリカ人と日本人の夫婦が、八十八カ所や奥の院、番外を訪ねながら
四国遍路道を歩いて3周した遍路日記をまとめた聖地巡礼メモア
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上高地と槍ヶ岳

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夏に、上高地から槍ヶ岳(3180m)をめざす人は多い。頂上部分は、槍のようにとがっているので、はしごを使う。

はしごを登っている途中で下を見れば、ゾロゾロと下から人が登ってくる。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のように、たくさんの人が、なにがなんでも頂上にいきたいのと、落ちたくないので、必死にはしごにしがみついている感じがしておかしかった。

槍ヶ岳に最初に登った日本人は、播隆(ばんりゅう)で1826年のこと。英国人ウォルター・ウエストンは、その66年後に登っている。播隆(ばんりゅう)は3体の仏像をおさめたといわれるが、今日は山頂には祠がある。

また、播隆(ばんりゅう)が修行したといわれる洞窟は、山頂から数百メートル下のトレイルの横にある。槍ヶ岳への登頂を、より容易にするために尽力をつくしたといわれる播隆(ばんりゅう)。「よくもまあ、こんなところで‥」といった印象をうけるほど、きびしい場所で、改めて昔の修行僧の志の高さを感じさせる。

今日では、一般人が色鮮やかな服装をして、ほがらかにその横を通過していく。まさに夢さながらの夏景色だ。

 

上高地と大キレット

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南岳と北穂高の間に、V字状に切れんでいるやせた岩稜帯「大キレット」がある。難易度は国内屈指。その長さはおよそ1キロ。ベテラン登山家でも、3時間半かかるといわれる。写真は北穂高(3105m)から撮った。

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横尾から奥穂高へ

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上高地から横尾を通って奥穂高をめざすルートは、登りやすいということもあって、とても人気がある。湿った森をぬけ、森林限界(2500m)をぬけて山頂をめざす。

夏の登山の時期は、6月の雨期と8月の台風の間のわずかな期間しかない。ベストは、7月の梅雨が明けてからの10日間。その間でも、晴れた空から突然に、雨がふってくることがある。冷たい雨なので、疲れた体にはかなりの負担となる。

自分もいち度、体温が突然に下がり、寒気がとまらなくなったことがあった。雨の最中にテントを急いではり、中で着替えをしたら、やっと寒気がとまったのを覚えている。そして、お湯をわかしてコーヒーを入れて、雨が止むのをまった。

何気にすぎた時間だったが、今にして思えば、あのとき、着替えやテントをもっていなかったら、命の危険さえあったかもしれない。若かったので、気にせずそのまま登山をつづけて、山頂に立った。90年代初め、当時は「山ガール」というものはいなかったが、私の山ガール時代の思い出のひとつである。

 

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上高地、梓川の渓谷

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標高約1500mの上高地から、標高約1620mの横尾までの道は、梓川にそって渓谷をあるく。徒歩で約3時間かかるが、美しくゆるやかな山道だ。混雑していないのが、またいい。

さまざまな植物が道の両脇にみられ、写真のオオウバユリなどは高さが180センチをこえ、花も大きく、つい立ち止まって見入ってしまった。 この谷は、夏には牛の放牧地になっていたので、1927年にふたつのことが起きなければ、この自然はとうの昔に消えていたかもしれない。

そのできごととは、芥川龍之介の「河童」が発表され、その舞台が上高地であったことと、秩父宮殿下が上高地を訪れたことだ。このふたつのことが、上高地を牛の放牧地から、人気の観光地へと豹変させた。そして……、10年後に地域一帯は、中部山岳国立公園として永久に守れることになった。

 

熊谷寺, 八番札所—四国遍路

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熊谷寺は、その名前ほど、恐ろしいところではない。むしろのどかなお寺で、小さな谷の端にある。写真の右は本堂、左の階段は大師堂へと続いている。

鐘撞き堂で鐘をつきながら、私たちは、あるアメリカ人夫婦のことを思っていた。まだ遍路道ブームがおこる前の90年代、かれらは遍路道をテントをかついで歩いて巡り、この鐘撞き堂では、住職から許されて一夜を過ごした。そう‥‥、かれらこそ、私たちが遍路道を歩くきっかけとなったのだった。

 

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四国遍路道

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©William Ash

この冬は、「四国遍路道」写真集の作製をしていて、四国遍路の日記を見直している。一周あたり、歩いて平均50日ぐらいかかる。写真の笠に書かれている「同行二人」は、「弘法大師といっしょに二人で歩む」という意味で、私たちは弘法大師とともに「世界平和」を祈りながら3周した。

遍路中は、テレビの放送とは似ても似つかない光景をみて、いろいろな思いが心をよぎった。でも、1周目(1998年)が終わったときは、さすがに驚いていた。この道を守ってきた、ふところの深い慈愛に満ちた精神は、どこから来ているのか?

歩き終えたときには、「人生そのものが遍路道、日常生活もまた遍路道」という、当たり前の思いをもって家路につく人が多いというが、確かに、あれだけ体も使って歩けば、どっかに意識だけが飛んでいってしまう妄想人間は、遍路道からは生まれないだろう。

ただ困ったことに、普通の生活にもどっても、どこへでも歩いていこうとする。どこへでも歩いていけると信じている。バスも電車も目に入らず、ただモーレツに歩きたくなる。喜んだのは犬で、それまで15分だった散歩が、2時間、3時間になった。いっしょに歩いていた空海が、今度は、愛犬になったような気がした。

でも、今はメイン州の冬の中、あまりに寒すぎて歩けな〜い。

 

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キャニオン・デ・シェイ国定公園  Part 5

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公園の地域には、何百年という間、ナバホの人々が住んでいる。今も、カボチャ、トウモロコシ、りんご、なしなどが栽培され、馬や羊も放牧されている。写真の中央、岩壁の影となっているあたりにある小さな点々は、羊だ。キャニオン・デ・シェイは国定公園になっても、土地は依然としてナバホの人々のもので、大切にされている。

車のツアーに参加したり、渓谷に降りて遺跡を訪ねたのだが、砂ぼこりというものが気にならなかった。創造主が土で人間の体をつくり、そこに命を吹き込んだというネイティブアメリカンの神話は、こういうキャニオンでは真実みを帯びてくる。

 

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